新井別院について

新井別院の画像

越後御坊―新井別院―

【住所】〒944-0048 新潟県妙高市下町5-3

TEL:0255-72-2519 FAX:0255-78-7776

  

【交通】 えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン 新井駅から徒歩約5分

沿 革

貞享2年(1685)本願寺第16代一如上人により末寺を改めて掛所に充て、上越地方末寺を管理せしめたのが新井別院の濫觴である。その後、延享4年(1747)に暴風雨で本堂破損。

寛延元年(1748)暴風雨で本堂倒潰、2年後に再建。

明和3年(1766)全堂宇消失、更に天明元年(1781)洪水で鐘楼梵鐘流失、安永元年(1772)に本堂再建、寛政4年(1792)梵鐘、同8年庫裡、享和元年(1801)食堂、文化4年(1807)山門、文政4年(1821)鐘楼をそれぞれ再建。

天保14年(1843)隣村の火災により茶所鐘楼を残して全焼。嘉永5年(1582)本堂再建。次いで庫裡再建。

明治11年(1878)雷火により本堂以下悉く焼失。同年9月明治天皇北陸巡幸に当り関山の宝蔵院より庫裡を移築、行在所に充て、翌12年本堂仮設、明治28年(1895)現本堂を再建。

以上のごとく創設以来三度の風水害と三度の火災に遭遇しながらも、その度毎に復興を成し遂げてきた。
本堂の他に食堂、庫裡、恵信尼公堂、鐘楼、山門を有す。願樂寺・聞稱寺・照光寺の塔頭寺院を含む崇敬地域寺院数、53ヵ寺(2015年現在)。

建造物

【本堂】明治28年再建。創設以来4度目の再建本堂である。18間4面。

【食堂】明治12年、現本堂再建までの仮御堂として建設されたもので、昭和59年に堂内に納骨堂を併設。

【庫裡】平成13年、雪害によって屋根滑落する。平成18年に新築し、平成19年6月20日に落慶法要を厳修する。

【恵信尼公堂】親鸞聖人の奥方、恵信尼公終焉の地と思われる「とひたのまき」が崇敬地域内の板倉町と言われており、更に新井市の若島家に蔵されてきた親鸞聖人真筆と伝わる光明本尊が恵信尼ゆかりのものと考えられるところから、その遺徳顕彰の趣旨により、篤信者若島与治郎氏の寄進により昭和31年建立された。堂内には親鸞聖人御在世の頃からといわれる樹齢七百余年の老杉(板倉町別所)にて彫まれた恵信尼公の尊像を安置する。

新井別院、恵信尼公堂

恵信尼公堂

【鐘楼】文政4年建立、天保、明治の火災をのがれた唯一の江戸期の建造物である。梵鐘は寛政4年の鋳造、太平洋戦争に供出をまぬがれた頚南地区唯一の梵鐘である。

行 事

新井別院の三大行事として報恩講と墨衣の御影の巡回、報徳会がある。

【報恩講】11月1日より4日までの三昼夜にわたり奉修される。当別院では報恩講というより「おたや」の名で頚南全域の人々に親しまれ、上越地方有数の法要として毎年にぎわいを見せる。なお、報恩講は親鸞聖人の御恩徳を報謝するために忌日を修する法要である。

新井別院の報恩講の写真

報恩講

【墨衣の御影巡回】天明8年、京都の火災で本山東本願寺が類焼し、寛政2年に再建の工事を興し、同10年完成するまでの十数年の間頚城の御門徒は京都に出向き再建の御奉仕をされたのであるが、帰国に際し達如上人より、再建を発願された先代乗如上人の墨衣の御影を賜ったのである。現在その御影は当別院でお預かりし、年一度頸南全域を巡回している。

【報徳会】6月24日、25日の両日にわたり奉修され、念仏の歴史をになってきた先達の御恩徳を報ずる法要である。

【毛綱寄進帳】東本願寺の現在の両堂は明治の再建であるが、巨木運搬のために毛綱を使用した。毛綱は婦人の毛髪と麻をより合わせて作成したものであるが、越後の国から15本寄進されている。当別院には、その毛綱を作るために寄進された毛髪の寄進帳と、期日に間に合わずに残された毛髪が蔵されている。

毛綱寄進帳と寄進された毛髪

寄進された毛髪

頚城門徒は別院の六度に及ぶ被災、両度にわたる本山東本願寺の再建にそれぞれ力を尽くしてこられた歴史を負う。その信心の歴史の象徴が新井別院である。

真宗大谷派新井別院パンフレットより

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