〔親鸞聖人 越後御旧跡案内のページ〕

親不知

居多ヶ浜

国分寺 ・竹之内草庵

光源寺 ・配所国府御坊

国府別院 ・竹之前草庵

恵信尼公廟所

無為信寺 ・二十四輩の寺院

常敬寺

新井別院

西照寺

高田別院






〔親不知〕|ページトップ

親鸞聖人は、承元元年(1207)2月、朝廷の念仏弾圧により流罪で最も重い遠流になり、越後国(現在の新潟県)の国府に流された。
聖人一行は、北陸道を下り越中国(現在の富山県)と越後国の国境を経て、糸魚川市市振を通り、北陸最大の難所といわれる「親不知」を越えられ、現在の糸魚川市木浦から舟に乗って国府の居多ヶ浜に向かわれたと伝えられている。

〔居多ヶ浜〕|ページトップ

木浦から舟に乗られた親鸞聖人が上陸された浜として有名。この居多ヶ浜には「親鸞聖人上陸之地 居多ヶ浜」の石柱が建っている。また、浜を見下ろす高台には上越市が展望台を設け、その脇には『もしわれ配所におもむかずは、何によりてか辺鄙の群類を化せん、これ猶師教のの恩致なり』と刻まれた石碑がある。

〔国分寺・竹之内草庵〕|ページトップ

居多ヶ浜から歩いてすぐのところに天台宗の国分寺がある。ここは親鸞聖人が最初に住まわれた「竹之内草庵」があった場所といわれる。境内には草庵の跡を示す「竹之内草庵跡石碑」、聖人が「鏡ヶ池」に写った姿を自ら刻まれたと伝えられる「親鸞聖人座像」が安置された「親鸞堂」がある。

〔光源寺・配所国府御坊〕|ページトップ

親鸞聖人が国府に配流中、木曽義仲の一家臣が聖人に深く帰依し、覚円坊最信の名を賜ったという。聖人が越後をあとに東国へ旅立った後、最信はこの地に残り一宇を興し、「覚円坊」と称した。天正3年(1575)教如上人から寺号をうけて「光源寺」と改め、享保17年(1732)東本願寺17代真如上人の時に本山の抱地となり、高田別院の支院として「国府御坊」と呼ばれたが、その後支院と光源寺とを併せて一寺となった。ここの本堂は、御影堂と本堂を併設した構造で大変めずらしく、御影堂の中央には「流罪勅免御満悦御影」が掛けられている。

〔国府別院・竹之前草庵〕|ページトップ

親鸞聖人が「竹之内草庵」から移り住んだといわれる「竹之前草庵」があったところといわれる。この草庵で恵信尼公と結婚生活を営まれたといわれている。
聖人が東国へ旅立った後、草庵は荒廃し、近くの天台宗宝持院の土地となったが、文化2年(1805)門信徒の懇念により本堂が建立され、明治4年(1871)宝持院から西本願寺が土地を買い求め、明治9年(1876)「小丸山別院」と公称、さらに昭和5年(1930)「本願寺国府別院」と改称された。

〔恵信尼公廟所〕|ページトップ

昭和31年(1956)旧板倉町米増の水田の中に「比丘尼墓」と呼び伝えられる五重の五輪塔が発見され、恵信尼消息第8通「五重に候う塔」とある恵信尼公の墓に違いないとして、昭和37年(1962)に「本願寺国府別院」の飛地境内として整備された。
恵信尼消息第9通の終わりに「とびたのまきより」とある地がこの地であろうとされている。

〔無為信寺・二十四輩の寺院〕|ページトップ

親鸞聖人の高弟24人(二十四輩)の一人、「無為信坊」が文永年間(1264〜75)に会津にて創建したと伝えられる。その後、各地を転々とし本山預かりとなっていたが、寛政12年(1800)に現在の地に越後国蒲原郡下条村「宗栄」(和泉屋 佐藤伊左ェ門)の尽力により再興された。
本堂には、「無為信坊」が聖人から形見としていただいたと伝えられる珍しい等身の「半身親鸞聖人御影」が安置されている。

〔常敬寺〕|ページトップ

親鸞聖人の孫にあたる唯善が開基。
元下総国(現在の茨城県)関宿中戸村に中戸西光院として建立されたが、蓮如上人の時に常敬寺と改めた。寛文6年(1666)上越市に移った。
このお寺の山門は珍しく朱塗りになっており「赤門さん」と呼ばれている。本堂には、聖人直作と伝えられる「簾阿弥陀如来」が安置されている。

〔新井別院〕|ページトップ

東本願寺第16代一如上人の時、貞享2年(1685)に創建された真宗大谷派(東本願寺)の別院。
現在の18間4面という大きな本堂は幾度もの災害を経て明治28年(1895)に再建された。
本堂には、「真向親鸞聖人御影」が安置されている。また、境内には昭和31年(1956)に恵信尼公を顕彰するために建立された「恵信尼公堂」がある。

〔西照寺〕|ページトップ

親鸞聖人の高弟24人(二十四輩)の一人、「西念坊」開基とする「長命寺」(長野県)の分寺である。
初め西照寺は信濃国松代(現在の長野市)にあったが、慶長年(1602)に越後に移った。
このお寺には国の重要文化財に指定されている「親鸞聖人像」が安置されている。

〔高田別院〕|ページトップ

東本願寺第17代真如上人の時、享保15年(1730)の創建された真宗大谷派(東本願寺)の別院。
残念ながら本堂は昭和26年(1951)に焼失したが、文政10年(1827)に建立された山門は、細部に渡り見事な彫刻が施された重厚なもので、往時を偲ばせる。