真宗大谷派 高田教区 宗祖親鸞聖人750回御遠忌 特設サイト

御遠忌法要
厳修期間
2018年4月18日(水)~4月21日(土)【高田別院】
4月23日(月)~4月24日(火)【新井別院】
法要まで
あと
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教区御遠忌テーマについて
高田教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ
私はどこで生きているのか ~たずねよう真宗の教えに~
テーマを生み出すまでに

 高田教区では、二〇〇七年に宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌お待ち受けとして「越後御流罪八〇〇年法要」を勤めた。親鸞聖人は流罪生活を通して、人間としてのいのちを赤裸々に生きている「いなかのひとびと」と出遇い、本願念仏の教えこそ国を超え、時代を超えていく共なるわれらの道であることを確信された。その流罪に心を致し、宗祖の歩みをたずねるべく「流罪からの出発」を教区の教化テーマとした。また、私たちは何を依りどころとして生きるのかがあらためて問われていることから、サブテーマを「私はどこで生きているのか」として、自己の立脚地を見つめ直すことを重点としての教化活動を行ってきた。
kumakawa
 テーマの策定では多くの方の意見を聞くということと、関心を持っていただくという観点から全寺院を対象とした意見聴取を実施した。この意見聴取から「流罪からの出発~私はどこで生きているのか~」として推し進められた事業が一定の評価を受け、流罪の意義が意識されたことがうかがえた。さらにこのテーマがどのように深まりをもったか確認するために、教化委員会では次の三項目を観点として部門ごとに検討を重ねた。それは、①このテーマによって自身に何が明らかになったか ②今の時代、社会をどのようにとらえるか ③教区御遠忌で闡明にすべき課題と視座の三点である。

 以上のように、教化委員会各部門の意見や、意見聴取の声を参考に「テーマ策定実行委員会」で議論を重ねてきた結果、教区御遠忌テーマ「私はどこで生きているのか~たずねよう真宗の教えに~」という言葉を生み出した。流罪という文字は入っていないが、決して流罪のもつ意義、そしてそこからの問いかけを離れたところにこのテーマの存在はなく、あらためて流罪のもつ意義をたずね、自己の立脚地を明らかにしなくてはならないという意味をこめてのテーマである。

テーマの趣旨と願い

 教区では、御遠忌に向けて実施した教化活動の点検作業を二〇一〇年度に実施した。この中で明らかになった課題の一つが、教区教化事業の行き詰まり状況という問題であった。特に本山御遠忌に向けた教区の取り組みや教化事業の認知度の低さ、参加状況の低さはどこに原因があるのか、早急に解決しなければならない課題が明らかになった。この課題の克服が、教区御遠忌の推進・円成に不可欠なものと考え、テーマ策定に当たり、「今」という時代認識、社会認識、なかんずく教区の現況をどのようにとらえるかという論議から出発することになった。教区御遠忌をどのようなものとして構想するかは、御遠忌そのものの意義、宗祖としての親鸞聖人にどのように遇うかということと併せて、教区の現況をどのように見るかという視座が必要である。

 親鸞聖人がいのちがけで伝えようとした念仏の教え、私たちはその教えに「遇う、聞く、帰す」ことを通して教区御遠忌を迎え、これからの生きる指標にしたいと思う。しかし、自身の生活が真宗門徒としての生活と言い切れない弱さ、自信のなさがつきまとっている。さらに言えば、そのことに気付かない、気付いても避けようとしている姿として露呈しているのではないか。私たちは宗祖御遠忌を通して、あらためて何を依りどころとして生きているのかということが問われている。そのような中で、これまで教区教化のサブテーマとしてきた「私はどこで生きているのか」をメインテーマとし、自身への問い、確かめる言葉として生み出した。「どこで」は「自己の立脚地と内実を問う言葉」である。さらに、「私はどこで生きているのか」という、自身の依りどころを明らかにしようと模索するうえで、「たずねよう真宗の教えに」をサブテーマとし、方向性を示す言葉として設定した。私の依りどころを、どこまでも宗祖のお心に寄り添いながら求め、確かめていく、そんな求道の営みに期待したい。「たずねる」は、「聞く」「語り合う」「伝え合う」行為を通して明らかにしていくことである。

 これまでにも指摘され続けている宗門の「閉塞感」と「危機感の希薄さ」は当教区とて例外でない。家の宗教に安住し、「常に自信教人信の誠を尽くし、同朋社会の顕現に努める」ことを怠り、自分の思いに閉じこもり自己満足して座り込み、歩みだそうとしない。そして、そういう姿勢に気付かず、そのことに危機感も感じていないという現実を厳しく問うことが必要である。この度の教区御遠忌が、自分の中あるいは教区の中にある負の姿を明らかにし、「私はどこで生きているのか」をあらためて確かめる、そんな歩みになることを願っている。そして、「真宗の教えにたずねる」プロセスが、お寺は何のために存在するのか、僧侶はどのような任務を担っているのか、私は何を為すために生まれ、生きているのかという根源的な問いに真向かうことにもなる。今後、テーマをめぐる寄り合い談合が生まれ、テーマが自身の行き方を振り返るきっかけとなり、結果として教区あげての御遠忌ができたという喜びが共有できることを願ってやまない。

(『御遠忌通信』第2号より抜粋)

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